読書の秋。窓を開けていると涼しい風が入って毎朝気持ちよく読書。
晴々とした気分でじっくり本を眺めていられるのは実は試しに買ってみたリーディンググラスであるっていう事実を思い出すとちょっとさびしい。いやいや眼鏡と無縁の人生だったからねえ、 やっと人気の眼鏡女子よ。ふふん。真っ赤なチェックの超かわいいやつよ。ま、だれにもこの姿は見せないけど〜。

今日はサン=テグジュペリの「人間の土地」(堀口大學訳 新潮文庫)が読み終わりました。なんだか言ってることが現代21世紀の私たちを揶揄しているようで人の進歩のなさにがっかりします。この本は1939に出版されているしテグジュペリはご存知の通り1945年に45歳で亡くなっているのだから現代なわけがないのだけれど。ナチスを知らなくてもうなづけてしまう。
なんだか今日は終盤の一説を紹介したくなりました。

・・・現在ヨーロッパには、二億の意味を持たない人間が更生しようと待望している。工業が彼らを、農民としての伝統から引き離し、黒い貨車が混雑している集散駅のような、これら巨大なユダヤ人居留地の中へしめこんでしまった。労働者街の奥で、彼らは、目覚めを待っている。
 他のある人たちは、先駆者のよろこびも、宗教者のよろこびも、学者としてのよろこびも、すべて禁じられたあらゆる職業の歯車に巻き込まれている。人は信じたものだった。彼らを偉大ならしむるには、ただ彼らに服を着せ、職を与え、彼らの欲求のすべてを満足させるだけで足りると。こうして人は、いつとはなしに、彼らのうちに、クルトリーヌふうな小市民を、村の政治家を、内生活のゼロな技術者を作ってしまった。人は彼らに教育は与えるが、修養は与えない、教養の意味を、もっぱら公式を鵜呑みにすることだと信ずるような厄介な意見が行われることになる。技術学校の劣等生でも、自然やそこに行われる法則についてなら、デカルトや、パスカル以上のことを知っている。だがはたして、彼に、あの二人と同じほどの精神力があるだろうか?

 多少程度こそ違え、みんなが生れ出たいという欲求を同じように感じてはいるのだが、ただ誤った解決法が行われているだけだ。人間に軍服を着せることによって、これに生気づけることのできるのも事実だ。それをすると、彼らは、戦争礼讃の讃美歌を歌い、戦友とパンを分かちあうだろう。彼らはまたその欲求する、大事に当る気概も見いだすはずだ。ただ彼らは、この差し出されたパンのおかげで、生命を失う結果になる。
それ相当の役割をする昔の木偶を地下から掘り出したり、古い神話をよみがえらせたりすることもできよう。また汎独主義や、ローマ帝国の神秘家たちをよみがえらせることもできるだろう。ドイツ人であること、ベートーヴェンの同国人たることの銘酊感で、ドイツ人を酔わせることもできるだろう。こうすることで、船倉係の末までも、酔わせることができるだろう。これは確かに、船倉係からベートーヴェンを作り出すよりはやさしいに相違ない。
 だが、この種の偶像は、肉食動物の偶像だ。知識の進歩のために、または病気を治すために生命を失う人は、自分は死ぬが、同時にまた、生命のために役立っている。領土の拡張のために生命を捧げることは、立派なことかもしれないが、今日の戦争は、その助成すると称するものを実は破壊している。今日では、種族全体に活を入れるために、少量の血を流すなどということはなくなっている。飛行機と爆弾とでなされるようになってから、戦争は、一種血まみれな外科手術でしかなくなってしまった。おたがいにコンクリートの壁で作った隠れ家の中にひそんで、仕方なしに毎晩毎晩編隊を送っては、相手の心臓部を爆撃し、その生命の根源を破壊し、その生産と流通を付随ならしめる。勝利は最後に腐るほうの側にある。しかも双方とも、たいていは同時に腐ってしまうのだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この数ページ後のまさにこの本のラストは、つくづく私も感じていたことが書いてある。
・・・・・・・・いまぼくを苦しめるのは、けっして貧困ではない。貧困の中になら、要するに、人間は懶情の中と同じように、落ち着けるものなのだ。近東人の中には、幾代も汚垢の中に住んで、快としている者さえある。ぼくがいま悩んでいるのは、スープを施しても治すことのできないある何ものかだ。ぼくを悩ますのは、その凸でも、凹でも、醜さでもない。言おうなら、それは、これらの人々の各自の中にある虐殺されたモーツァルトだ。・・・・・・・・・・

本っていうのはいろんなことを教えてくれるだけじゃなくて、ずーっと心で思っていたことを、みごとに上手に言い表してくれるものでもあります。さすがテグジュペリ。
といっても未読の方には何がモーツァルトなのか突然ここだけ読んでもわからないと思いますので是非実際に「人間の土地」を読んで分かち合えたらいいなと思います。というわけで、締めの一文もここには書きません。

とくにこのモーツァルトのくだりは教育者の立場の時には常々意識してきたことでもありますが、私は前向きなので、とっくに大人になりながらも自分の中のモーツァルトにやさしくなろうとしています。テグジュペリの時代より自由もチャンスもあるし、人生も長いのだもの。幼いモーツァルトが出会えなかった園丁に私自身がなってあげようと思うのです。ちょっとスタート地点をずらした意識で生きてみようと思っているのです。

わかんないだろ、って言いながらコメントを付け加えてしまった。ますますわかんないと思います。
いよいよ読んでください(笑)
テグジュペリに触れて世界を広げる人が増えるのはうれしいし、それよりもっと
園丁Kinkoちゃんに共感してくれる人にたくさん会いたいのです。

書道家 金子祥代 Kinkoちゃん随筆
http://www.kinkochan.com/
長年古典で培った書の力をベースに現代に通じるアートの世界を展開中